宝地院縁起

当寺域はもと、平頼盛公(平清盛の異母弟)の山荘地で、治承4年(1180)の福原遷都の際、6月3日 安徳天皇が頼盛邸に入御された。御父の高倉天皇は、清盛公屋敷の雪の御所に入御された。しかしご都合があって、6月4日に安徳天皇と高倉天皇は、それぞれの御所を替わられて、高倉上皇が頼盛公屋敷にお移りになりその年の10月まで此の山荘に居られた。その因縁により、約百年後の弘安2年(1279)に、安徳天皇の菩提を弔うために僧 智鏡(智譽大圓)を開山として、宝地院が建立された。平清盛公が死んで、平家は衰運に傾き、一門は西へ西へと敗走を続ける。

平知盛公は、智謀深く、壇ノ浦の合戦の前日、ひそかに帝を逃れさせた。『玉葉』『醍醐雑事記』等、正史には行方知れずと記し、入水崩御の事は記されていない。よって、安徳帝の遺跡地、墓陵地の伝承は、対馬・長門・豊前・肥前・肥後・薩摩硫黄島・日向・土佐・因幡・阿波祖谷・播磨・摂津能勢等、はなはだ多くこのように数多くあるのは安徳天皇のみである。

特に、対馬国下県郡久根田舎村は、明治16年(1883)山稜見込地と定められ、その地の伝承では、建長3年(1251)74歳にて安徳天皇ご崩御とあり、不幸の帝を幼児期に縁のあった頼盛邸跡にてご菩提を弔い奉らんとした心情が伺われる。その事からしても、壇ノ浦合戦(1185年4月25日)後、約百年の当寺建立も首肯される。

時は流れ、元禄年中(1688~1703年)に、僧 世厭(せえん 中興の祖)が再興し、宝暦年間(1751~1763年)に僧 門超が中興し、寺門は大いに拡充した。

明治初年には地域が市街地となり、荒田村の人口が急増して檀家数が大いに増えるも、昭和20年3月17日のアメリカ軍による無差別空襲により堂宇はすべて焼失し、昭和24年に本堂を再建するも、平成7年1月17日に発生した阪神淡路大震災にて甚大なる被害を受け、大規模修理を余儀なくされた。

現在の伽藍は、平成8年12月に震災被害より大規模修復なったものである

※昭和30年より境内地に宝地院保育園を開設し、地域の福祉増進にも寄与しています。詳しくは、別ページをご覧ください。

境内に天明地蔵がある。天明大飢饉で飢餓のため亡くなった沢山の方々を弔うためにと供養されたもので、長い間あつい信仰を集めている。